最近、同世代かちょい上くらいの世代、まあ40歳とか50歳くらいのおっさんたちと話をする機会がよくある。で、しみじみと思うことは、その人の世界観みたいなものってある程度の年齢でかたまって、そこから先はなかなか修正がきかないんだなあ、みたいなこと。世界観っていうと大雑把だが、人間の社会はこんなかたちでできてるよねーみたいな話だ。いまだったらLINEだのツイッターだのの各種SNSがあってニコ動があって、要するにネットってものが所与のものとしてあって、未来はあんまり明るくなくてとか、そうしたものの総体として「その人が見た世界」のことだ。50歳のおっさんだったらバブル的世界があって電通すごいとかそういう感じの。

 で、その「どこか」の年齢が実際にどこであるのかは俺にはよくわからん。わからんのだが、以下のようなことはいえると思う。この社会を動かしてるのはだいたいのところ大人なわけだが、その大人の社会に放り出されて何年か、あるいは10年もすれば、その内部での手足の動かしかたみたいなのがわかってくる。広くとれば社会情勢、小さくとれば職場環境、結婚するかしないかはさておき家庭環境。なんにつけ大人の社会ってのはその人に「なにか」を常に要求しつづける。その要求と自分との葛藤をどうにかして解消しようとたいていの人はもがくわけで、もがくなかで「まあこのへんまではだいじょうぶ」というのがわかってくる。

 逆にいえばこのことは「そこまでしか手足が届かない」という事実を知るということでもある。あるいは「この程度までしか動かさないほうが結局は楽」とか。そんでまあ、その範囲ってのは世代ごと、社会集団ごとにだいたい公約数的なものはあるので、そこに安心とかも発生する。んで、そのことが自分が生きる社会への信頼とか安心感みたいなものにつながってくる。ちなみにこの「安心感」とか「信頼感」は、実際に社会がそういうものに満ちているかどうかとはあまり関係ない。ヒャッハー汚物(略しすぎ)みたいな世界でも、その世界での適応を遂げればそこに信頼はあるわけ。諦めってかたちでも。

 で、こうなってくると社会と自分の関係は安定する。よくも悪くも。んで、たぶんそこで人は停止する。なにせ自分だけじゃないからね。同じ状況でみんな同じように停止する。

 

 ところで人は、文章からなにがしかの実感を得ることがかなり難しい。体験は抽象化され記述になるが、記述が感情にフィードバックされるのは、その人の経験を参照してのことだ。自分が40歳50歳になったときに、下にはたくさんの自分より若い世代がいる。その人たちはとうぜんおっさんたちとは違う体験をして生きてきたわけで、違う世界観を持ってる。違うったって同じ人間同じ国同じ言葉使ってて、そうまで理解困難なものだとは俺は思わないんだが、そこは体験とか社会への信頼、安定感みたいなものが邪魔をする。あと文章から実感を得るのって結局は訓練だからね。知的な訓練を経た、しかも感受性が柔軟な人だけがそれを実行できる。

 問題はだ。社会に対する信頼なりなんなりがある限り「疑ってかかる」ということがとても難しいということだ。自覚というのはたいていマトリョーシカのようなもので、内部には進めてもその外部に出ることは難しい。

 そうやっていつしか人は「最近の若いもんは」と口にするようになる。口にすることがかっこわるいことだと思っても内心ではそう思うようになる。特にインターネット以前と以後でこの断絶がわりと大きくなってる気がする。

 

 仮に自分の手足の届く範囲を理解できるってことを適応と呼ぼうか。適応はその人にとってささやかな幸福であり、探索者として死だ。ま、探索者は往々にして野垂れ死にの末路を迎えたりもする。全員が探索者ならそれはそれだが、そこではまた別のモラルが発生するに決まってる。いい悪いじゃなくて、これはそういうものだ。

 仮に探索者としての生をまっとうしたい人がいたとする。その人が最初にすべきは「変化を理解している」と思うその自分をまっさきに疑うことだろう。すべては仮説である。仮説のただなかに浮遊しながらも己の信念とやらをどこかに屹立させなければならない。こんなクソ面倒なこともないので、適応してしまった人たちを責めることは俺にはできない。

 できないんだけど、いらっとはするわけよ。

 んでその「いらっとする」部分をも疑う。まあ無間地獄だわな。あえてそこに身をおきたいと願うとしたら理由はただひとつで「退屈したくない」から。どうせ肉体が動ける範囲なんて限られてるんだから。だとしたら目の前にあらわれたものはなんでもおもしろがらないと損でしょう。否定していいものなんてなにもないでしょう。

 まあ好き嫌いはあるんだけどさ。

 というようなことを思うわけです。

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