愛用していたオンラインテキストエディタが最近やたらに有料化を薦めてくるし、なんか反応悪いしでいいかげん使い勝手が悪すぎるのでしかたなくふつうのテキストエディタを使うことにしました。家やら職場やら外出先やらいろんなところで文章を書き散らす俺には、非常に便利なツールなんですけどねえ……。
 まあDropboxに保管しときゃいいだけって話ではあるんですが、文中で頻繁に「ctrl+s」を連打する人としては、あの保存してるときの微妙なタイムラグが気になったりもするわけです。おまえの1秒未満の時間がそんなに重要なのかよって話ですが、テキスト叩くのはアクションゲームみたいなものなので、微妙な操作感の悪さがゲームとしての楽しさに水を差すんですよ。
 まあそれはさておき。
 ここのところ「一人のライフスタイル」みたいなものを徐々に思い出しているところです。ツイッターやるとブログの更新しなくなる、というのはよく聞く話ですけども、あれ俺みたいに朝に晩に寝る前になんか書いてるような人種でもやっぱりそうなんですね。それでもまあPVっていうご褒美がある限りは書いたりもするし、そもそもPVが一定数あるってのはそれだけ期待してる人がいるってことじゃないですか。となると責任感みたいなものも発生したりするわけです。楽しませなければならないという。そして楽しませることが自分にとって快楽であるのなら、それ自体がご褒美なんですな。
 ただまあ、そこまで持ってくのにもモチベーションってのは必要だって話でありまして、なかなかそこまでには辿り着かないわけですよ。
 そもそも文章ってのはやっぱり「共感されなかった言葉たち」なんだと思うんですな。だれも聞いてくれない、わかってくれない、そういうときに人は書く。たとえばおしっこ限界まで我慢して一気に大放出、すごいすっきりした、というようなことは人間万人に共通の感覚ですので、これはあまり書かれる必要がないわけです。男どうしのざっかけない会話であれば「あーやばかった。死ぬかと思った」「おまえどんだけ我慢してたんだよ」というような感じですぐに共感可能なわけです。しかし常におしっこ限界まで我慢してから放出することを追求するとなると、ちょっと共感可能な範囲とはいえない。そうするとその人は、いかにおしっこ我慢がすばらしいかをなんらかのかたちで表現するようになる。いや、ならずに孤独に追求するのかもしんないですが。
 ツイッターってのはそのへん実にお手軽なツールなんですな。まず同質性の高い集団を成立させやすい。俺がひとこえ「女の子のおしっこを浴びたいなあ」といえば「そうですね」という共感の言葉はおろか「いや、あれは浴びるものではなく飲むものです」などという共通の土俵に立ったうえでのさらに高次な議論が可能です。こういう手軽な共感ツールというのは人間に普遍に存在しているもので、そういうことができる相手を一般的には友だちと呼ぶんだと思うのです。
 友だちがいる人はリア充ということになりますので、インターネット友だちがいる俺らもまたリア充ということになります。つまり、その場所が充実していれば別の場所で文章を書いたりするような労苦を背負う必要はどこにもない。俺のようなタイピングきちがいでなおその事情は変わらない。
 まあ俺の場合、一時的にとはいえツイッター断ちのようなことをしているのは、単純に仕事がもう限界に来てるからという別の理由なんですけども(逆にいままでどんだけ無駄な時間をツイッターに費やしてたんだよって話でもあります)、結果としてこういうことを考えた、という話でした。
 長年とにかく文章を書き続けるということをしてきて、俺は、日常生活のなかでちょっとでもおもしろいこと、いやなことがあると「これをどう書くか」というふうに考えるんですよ。自分の体験は、よほど深刻なものでない限りネタなんです。この考えは徹底していて、俺はずっと自分が死ぬときには体力の及ぶ限りその状況を実況したいと前から思ってる。注目を浴びたいとかそういうことじゃないんですよ。死ぬのって一回限りじゃないですか。そんなレアな経験をネタにしない手はないってふつうに考えちゃうんです。死への恐怖とか、これいくら想像したってわからんものはわからんので、たぶんそりゃ腹立ったり怖かったりすると思うんですけど、そのとき俺絶対に思うはずなんですよ。「このいまの感覚を書かなければならない」って。理由なんてどうでもいいんです。特筆すべき経験ならみな書いておかないと気が済まないんです。
 そんで、だれかが読んでくれたら満足する。読んでくれるという可能性だけでも満足できる。こういう人間にとってツイッターってほんと最適なツールです。最適すぎて、たぶん幸福だったんでしょうね。より多くの人に読んでほしいとか、もっと大きなことについて書きたいとか、そういう欲望すらなくなってた。そして「それこそは」は俺にとって幸福のひとつの表象だったんですよ。書かなくて済むならそれは幸福なことだろうと、ずっとそう思ってた。
 ただまあね、腹のなかに「書きたいこと」をずっと蓄積して、長文でどかんと書くのもこれはこれで楽しいのです。
 いやほんとにね、なんでこんな楽しいのか自分でもよくわからんです。わかる必要すらない。しいていえば、タイピングすればそこに文章が存在する、という事実そのものが楽しいんだというほかない。たとえば筆記具好きみたいな人の原風景も似たようなもんじゃないかと思うんですよね。キャップを取って、筆記具を紙に押し付けてスライドさせる。するとそこには線がある。書けるということ、その線になんらかの色がついていたり、線の幅が違ったり、それ自体が楽しくてしかたない「子供」みたいなものがきっとその人のなかには潜んでいるんです。
 だいたいの趣味ってそんなもんじゃないんですかね。