収入その他自分の経済状況を考えるとちょっと分不相応な広い間取りのアパートに住んでいる。具体的には5DKである。なんでこんなことになったのかよくわからない。不動産屋には「予算は7万程度」と伝えてあった。やたらに引っ越しを繰り返している友人に聞いたところ、不動産屋は処分したい物件から紹介していって、何軒目かでそこそこの物件を紹介し「もうこれ以上の物件はない」と言いはるとのことだった。それを拒絶してから本当の物件探しが始まるとのことで、俺にはそんなめんどくさいことができそうもなかった。しかし俺が入った不動産屋のおっさんはそのとき泥酔してたのか、なんかハッピーになる薬をやっていたのか、理由はよくわからないがやたらなハイテンションであり「兄ちゃん気に入った! すげえ物件紹介してやる!」といって案内されたのが現在の俺の住居である。駅から徒歩20分。築20年とはいえ、リフォームはきっちりなされていて小奇麗であり、かつ日当たりそのほかも悪くない。いわゆる事故物件かと疑うのがふつうだが、別にそういうこともない。
 まあ種を明かせば、以前にその部屋で暮らして大家の家族がなんらかの理由で夜逃げ、しばらくのあいだ強面の借金取りの兄さんたちが周囲をうろうろしており借りてがつかなかった、というのがその理由らしい。
 しかも実際に暮らしてみると、微妙にいろいろ使いづらい。間取りなのだが、DKが5畳程度、それに隣接して和室が6畳、ほかに和室6畳、洋室が5畳と、小さい部屋が区切られている。そしてロフトというより屋根裏部屋とでもいうべきスペースがあり、そこが4畳半×2である。実際、ひとり暮らしだとそんなにいろいろな部屋を使えるはずがない。なんとなれば二人でも余る。実際余ってる。
 そこがまずかった。

 朝起きる。男のひとり暮らしなんで、寝るときはパンツいっちょうにTシャツくらいのもんである。ベッドをずるずると抜け出し、そのままの格好でお湯をわかす。コーヒーくらいは飲まないと目が覚めない。ガスコンロの炎を呆然とした表情で見ていると、物陰から視線を感じる。
「……」
「……」
 見ている。
 めんどくさいからそのままにしておく。
 そうすると、しびれを切らしたのか、視線の主は恨めしげに言う。
「先生……私、言いましたよね。そんな格好でうろうろするなって」
「あー」
 対する俺は完全な生返事である。
 いいじゃねえかよ俺の部屋自分がどう使おうと。
「もう、言ってもムダなんでしょうけど」
 わかってんなら言うなよ。
「でも、そんなかっこされてると近づけないです。なんか着てください」
 近寄ったら妊娠するわけでもあるまいしどうだっていいじゃねえかよ……。そして寝起きのぼけた頭のまま完全にやる必要のない行動に出る。俺は声の主のほうにつかつかと近づいた。
 相手、逃げる。一定の距離を置いて俺を睨んでいる。
 さらに近づく。相手逃げる。
 しかし複雑な間取りゆえ、空間は狭い。すぐに追い詰められる。ちなみにぱんついっちょうの俺と対照的に相手はしっかりと制服姿である。
「や、やめてください。そういうことするの」
「そういうのってどういうの?」
「その、近づくの、とか」
「近づいたらどうなんの」
「……先生、なにする気ですか?」
「なにって……」
 ぱんつに手をかけて身がまえてみた。我ながら大人げないのはわかってるからほっといてくれ。
 その瞬間、制服姿の女の子はくるりと背を向けた。
「見えない見えない見えないなにもないなにもない……」
 殻に閉じこもったらしい。
 そこらへんでようやく俺も覚醒してくる。どうやらやっちゃいけないことやってたらしい。自慢じゃないが寝起きの俺はなにをやらかすか自分でもよくわからない部分がある。
「あー、悪い」
「……」
 振り向いた。涙目である。
「なんか、ごめん」
「もう、いいです」
「人が謝ってんのにその言いぐさは」
「なんでもいいから服着てください!!」
「は、はい……」
 そんな感じで朝が始まる。いっておくが、毎朝こんなことをやっているわけではない。

「つーかさあ、食事じゃん? せっかく同じテーブルについてるのに、向かいにそう仏頂面してる人がいるとメシもまずくなるわけよ。なんかこう、ぱーっと笑顔になれない? 先生のごはんおいしいですぅとか言えないわけ?」
「……」
 睨まれた。
「私になにを期待してるんですか?」
「生活の彩り、とか?」
「そういうのは彼女さんとかに期待してください」
「いま目の前にいるのは長沢だろ? だいたいごはんおいしいのどうなの。人の作ったメシ食っといて、そんなツラされたらまずかったのかとか不安になるでしょうが」
「……」
 睨まれた。上目遣い。
 つーかこの子なにがあってもとりあえず睨むのな。まあ、なんつーか、前から愛想のいい子だとは思ってなかったにしても。
 長沢(と俺は呼んでいる)は、テーブルの上に広がる、玉子焼き、肉豆腐、小松菜のおひたし、長ネギと油揚げの味噌汁をひととおり見てから、いやそうに言った。
「……おいしくない……わけじゃないですけど」
「おいしいの?」
「……どっちだっていいじゃないですか」
 そっぽを向く。
 これがエロゲだったら、はいツンデレ入りましたありがとうございまーすってところなのだが、リアルでこういう態度取られるとちょっと(かなり)イラッとする。エロゲはな? あれが許されるのはだ、最初から相手が自分に好意を持っている、あるいはそういう展開になるとわかっているからだ。しかし現実はどうだ。だいたい人間、相手が目の前にいて、その人間が自分に好意を持っていると確信できる瞬間なんてそうそうあるか? ないだろう。俺はないよ。あったら人生変わってるよ。少なくとも俺の部屋にエロゲが転がってる状況にはならねえよ。
 そんなこんなで無言の食事は続く。俺はテレビをつける習慣がないもんだから、間を埋めてくれる音もない。
 ……わりと気まずい。
「ごちそうさまでした」
 長沢が言って箸を置いた。
「食器、シンクのなかに置いておけばいいんですよね?」
「あーうん」
「それと」
「なに?」
「……おいしくない……わけじゃ、なかったです」
 ……なんだろこれ。ツンデレフラグ?
「私だって、別においしいものをおいしくないと言ったりするほどひねくれてるつもりはないです」
 うわあ……。
 なんだろう、これ、めんどくせえ……。

「じゃあ俺はもう出るけど、鍵ちゃんとかけてな」
「わかってます。子供じゃないんですから」
 文句いわずに人の言うこと聞けねえのか、この子は。
「あー、あとうさぎに水やっといてくれ」
「このあいだ、そのうさぎ、私に襲いかかろうとしたんですけど」
「襲われたとしても人間のほうが強えだろ……」
「知ってますか? 犬と戦ったら人間のほうが負けるんですよ?」
「そいつは犬じゃねえ。人畜無害な草食動物だ。草食系うさぎ動物だ。肉食ではない」
「肉食系うさぎ……」
 DKに隣接する和室にはうさぎがいる。実家でずっとうさぎを飼っていたため、俺もひとり暮らしを始めたころからなんとなくうさぎを飼っている。ちなみにこのアパート、ペットも可である。
 で、長沢は顔をそむけた。頬のあたりをぴくぴくさせてから、おもむろに俺のほうを向いて言った。
「先生はどうしてそんなバカなことばっかり言うんですか?」
 いま君笑ってたよね? めっさ顔の筋肉痙攣してたよね!?
「なんでもいいから。小屋の外から水入れに水足すだけだから。できるよね?」
「なにかあったら責任とってくださいね」
「なにが起きるっつーんだよ!!」
「うさぎが、私のこと嫌いになるとか……」
 うおおお朝の時間のねえときにやってる会話じゃねえよ!!
「とにかく行くから! 頼んだ!」
「……わかりましたけど」
 未練がましい声を置き去りにして、俺は家を飛び出した。

 家から職場までは自転車で40分程度である。電車バスなどの手段ももちろんあるが、体力の維持のためそうしている。それになにより満員の電車とかバスとかいやだしなー。
 愛車はビアンキのクロスバイクである。自転車に乗るのは趣味といってもいいと思うが、それほどこだわりはない。日常の足としては充分である。
 仕事は塾の講師。学生時代にバイトとして始めたのだが、職場の居心地がよくてそのままずるずると就職してもう数年が経つ。気がつけば30という数字が可視範囲に入ってきた微妙なお年ごろである。
 初冬には珍しいあたたかい空気のなかを突っ切って、塾が入居しているビルの自転車置場にチェレステグリーンのクロスバイクを止める。
「はよーっす」
 あいさつをしながら講師室へ。
 塾の業界も競争とやらが厳しく、生徒の奪い合いである。そもそも生徒となる年代の人口が減少している。大手の予備校が規模を縮小しているのは救いだが、その一方で少人数教育を謳い文句にしたチェーンが駅前に次々と新しい塾を出す。
 そんな状況下、俺の職場はいまどき珍しい、大学受験まで面倒をみる個人経営の塾という形態だった。ちょっと考えればわかるだろうが、塾というのは実はクチコミの要素が極めて大きいのである。また、親がかつての塾生であり、悪い記憶がなければ子供をそこに入れたいということもある。実際の合格率を含め、地域での評判を裏切らずに経営してきた所長の手腕はすごいと言わざるを得ない。
「はいはいはいおはようおはよう、どうだね調子は調子はいいかい」
 ただし鬱陶しい。
 年齢は五十代後半。親の代からこの地で塾を経営。特徴的なのは190センチに近づこうかという体のデカさである。縦にもでかいが横にもでかい。この人を見て最初に思いつく職業は、おそらくプロレスラーだ。実際腕の筋肉とかおかしい。あと声もでかい。とにかく存在がうざいとしか言いようがない。いつでもきっちりスーツ姿でネクタイとか締めてるあたりが肉体の鬱陶しさをより強調する。つーかあの首の太さに対応するワイシャツとかこの世に存在すんのな……。
「別に調子は悪かないですけど……」
「なんだ、なにかあるのか。言葉を濁すのはよくないぞ。男ならば言葉尻まではっきりと!」
 おっさんこのあいだ学生のバイト講師に、女ならば言葉尻まではっきりとって言ってたよな。まあそれはいまさらなんだけど。
「長沢の件ですよ」
「ああそうか。どうだいなかよくやってるかねこう、なかよく」
「そんなうまくいくわきゃないでしょう」
「なにか問題があるかね」
「問題ってほどの問題もないんですけど……」
「じゃあなんとかなる!!」
 雑すぎんだろ!
 と、喉元まで出かけたが、それは飲み込んでおく。こんなもんでも所長である。
 そんでまあ、事情はおいおい話すにしても、長沢がうちで生活しているのにはこの人が絡んでいる。
 長沢なあ……。
 俺が長沢と同居を開始したのはわずか4日前のことである。高1の授業補強クラスの生徒で、ここ半年ばかりは俺の教え子でもある。このあたりの公立トップ校に通っており、成績は極めて優秀。まあ公立トップ校だと優秀のまま3年間通すことは相当に難しいことなのだが、勉強の習慣は身についているし、なにより飲み込みが抜群にいい。このまま行けば指定校推薦は狙えるだろう。
 生徒としてはわりと扱いやすかった。なにより真面目である。真面目なタイプは周囲の助言が入りづらい場合も多く、我流の勉強で効率を落とすことも多いのだが、長沢に関してはそういう部分もあまりない。笑顔はほとんどないし、だいたいいつも機嫌は悪そうに見えたが「なぜそれが必要なのか」をきっちりと説明すれば、こちらの指導のほとんどは入った。こういう生徒には手をかけたくなる。実をいうとこのとっつきの悪さのせいで、ほかの先生との相性はあまりよくなかったようなのだが、俺はわりとそのへんの感覚がドライで「優秀なら面倒をみたくなる」というような性質がある。結果として長沢のことは俺担当、みたいな空気ができあがっていた。
「だからってこんなことになるなんて聞いてねえぞ……」
 俺は自分のデスクで頭を抱える。

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