時間もあるし、だらだらと書く。
 最近は夜によく歩く。まあ足腰がやばいかなあ、これからさらに仕事も忙しくなるしなーと思って始めたことだ。仕事が深夜まで及ぶことが多いため、歩くのも深夜になる。いまの時期は寒い。
 もともと夜中に出歩くのは好きだ。十代も後半のころから特に用事もなく出歩いていたりした。住宅街の片隅の街灯の下で本を読んで缶コーヒーとか飲んでるのがわりと好きだった。ま、いまだったら通報されてもおかしくない案件だが、当時はいまよりもいろんな部分が大雑把だった気がする。そもそもニュータウンの開発はまだあちこちで進行中で、けっこう隙間があったんだよね。
 ただまあそうやってふらふらと出歩けるのも体力があってのことで、いま歩いているときは、膝に影響が出ないか、腰が痛まないか、腹筋の使いかたはどうかとか、そんなことばかり考えているので、叙情的でないこと夥しい。
 このへんはわりと田舎なので、畑やら田んぼやらも多い。場所によっては街灯ひとつなく真っ暗闇である。じーさんばーさんがぎょっとするような高出力のLEDライトを持って犬の散歩とかしてたりする。あれちょっとした革命だよな。懐中電灯の世界が塗り替わった。わりとしょうもないことではあるが、たかだか単3電池一本で真っ暗闇を歩くのに充分な光量が得られ、かつそこそこの時間の電池寿命があるとか、LEDが一般化する前はちょっと考えられなかった。
 そういえばさっきまで、未来の世界はコンピューターの爆発的進化によってえらいバラ色になるぞみたいなまとめを読んでいた。俺はああいうのにはちょっと懐疑的である。というのは、40年から生きてきて思うのは、技術革新なんてものは、日々を生きる市井の人々にとっては「あたりまえのもの」として生活に入り込んでくるものだからだ。たとえはスマホがどれだけ流布しようとも、姑と嫁のいざこざは起こる。仮に人間が電脳化しところで恋愛の悩みはなくならない。もしそうでなくなれば、人間は人間であることを捨てたことになる。そしておそらく人間は「人間」を手放さない。さらにいえば、肉体を手放すこともおそらくはないだろう。2015年現在、すでに手放せる「肉体」はいくらもあったはずだ。にもかかわらず自転車は空前のブームである。俺は若いころから自転車の趣味を持っていたが、今日ほどスポーツ用の自転車が頻繁に出回っている時代はない。あれは移動という観点から考えればまったく合理的ではない。しかしそこには肉体の快楽がある。人はたぶん、筋肉がもたらす愉悦を手放すことはしないだろう。行きすぎにはかならず揺り戻しが発生する。それは人間にとっての限界であり絶望だが、しかしまあ生物であることをやめられないことに対しては、一種の信頼のような気分も持っている。

 まさか自分が「健康のため」なんて理由で歩く日が来るとは思わなかったが、それでも歩いているときにいつも体のことばかりを考えているわけではない。仕事のことばかりでもない。ふとした瞬間に、寝静まった町に放り出された「どこにもつながれいない」ような自分を感じることがある。深夜は、自由である。
 畑のなかの一本道を歩いていた。遠くに直交する道がある。あたりは本当の闇だ。満月と、新月と、その明るさの違いを都会で感じることはあまりない。それよりも明るい地上の光がいくらもあるからだ。こんな場所では、まだそれがわかる。その日、月はほぼ丸く、畑はうっすらとなにかの野菜が連なっている表面を見せていた。遠くに、光が見えた。夜に浮かぶ蛍のような光だ。それが不規則に揺れていることで、だれかが持っているライトの光なのだとわかった。
 光は、ふたつ。夜のなかに、ゆらゆらと揺れている。
 結局、そのライトの持ち主がどんな人たちであるかを確認することはなかった。というより深夜に人とすれ違うのはふつうに気まずいし。
 まあ、俺の腐れ脳的には、あれが15歳の女の子だったらいいなあと思いました。そういや昔にそういうお話を書いたことがあるような気がする。ただあれ、こっちが観察者だからいいんだよね。闇夜に浮かぶ二つの光点。それがゆらゆらと揺れている感じ。受験勉強かなんかに行き詰まった女の子二人が、深夜に家を抜け出して歩いてるわけ。
 ま、そういうことを妄想しながら歩いてると、健康のためとはいえけっこう楽しいという話です。ちなみに俺が持ってるライトは、自転車のライトとしても充分にいけるとんでもない光量のやつなので、叙情性もなにもあったもんじゃないです。向こうから車が来ると気をつかって消さなきゃいけないレベル。電池のもちが悪いんだよなあ。