通勤手当とか云々の記事から増田の記事などを読みつつ、ふとちきりんという人について考えてみた。よくもまあというくらい叩かれる人だが、俺はあの人を高く評価している。あの人のやっていることはずっと一貫していて「問題の本質はこうだから、こうするべき。現実的に可能か不可能かは問わない」というものだ。
 その見極めた「本質」とやらが正しいかどうかについては、実はそれほどの確信を持っていないのではないかと思う。それでもああいう煽りに近いスタイルを採用するのは、人格の問題に帰せられるべきではない。そういうスタイルを取っだほうが拡散して読まれる確率が上がるからだ。
 こんな場所で隠棲している俺がいうのもなんだが、文章は読まれなければ意味がない。読まれれば、リアクションがある。肯定的否定的を問わず、真剣に考えられたリアクションは、自分の意見の強度を上げたい人間にとってこれほどありがたいものはない。あの人が欲しいものはまさにそれで、ブコメを非表示にしている理由もたぶんそれだ。公開していなければ、スタンドプレーのようなネガコメが減る。それでも存在するネガコメは、ほかの人が見る機会が激減するわけだから、より直接的になる。なにかといえば、書き手にとってのノイズが減る。より有益になる確率が高くなる。
 早い話が、自分を成長させることにしか興味がない人なのだと思う。そして成長したぶんは、文章を公開するというかたちで還元する。読む人が読めば気がつくだろう、ということだ。実際、投げっぱなしに見えるようなエントリでも「実現するとこういういいことがある」という補足は入れていることが多い。そしてデメリットに見えるものは、実は「どんなやりかたをしてもかならず発生する」という性質のものだ。
 問題が発生した場合、対応策はいくつかある。ひとつは我慢すること。次に問題が発生したところから順次修正していくこと。いわゆるカイゼンがこれに当たるだろう。最後に「なぜ問題が発生するのか」を考えて、その本質的な問題点そのものを糺すためにシステムをまるごと更新することだ。もちろん後者にいくほど難度は上がる。
 ここで問題になるのが、抜本的な解決策は、ときどきは妄想と区別がつかないということだ。とかく人は「可能かどうか」で見ようとするのだが、実は、物理的に不可能でないことは、人間の社会、たいていは可能だ。もちろん現実というのは、なんらかの理由において現状の最適解だ。しかし最適解だからといってそれでおしまいというわけではない。人が複数集まれば、最適解にも取りこぼしは発生する。それが社会とも呼べる規模になればそれは必然だ。
 システムを更新すればそれにともなって、なんらかの新たな問題が発生する。しかしそれは起こった時点で修正すればよい。「まず変える」「そのあと、対応する」というのがおそらくはもっとも効率がよく、正しい順番である。往々にして人の世は「なんとか対応する」「いずれ変えようと思って、結局できない」に陥る。そこが問題である、というのもあの人の変わらぬ主張のひとつでもある。
 いっけん弱者の切り捨てに見える意見も多いが、実はあの人は弱者を切り捨てることに興味はない。弱者が発生するその構造自体を革新したい、というのが欲望の根本だろう。そういう意味では永久革命的な思考を持っている。まあ、もうちょっと俗っぽい部分もあって、実はそういうことにすら興味がなく、単に「新しいものが見たい」というだけなのだと思うが。混乱ラバーというのはその意味においてだ。

 ひとつだけ気になることがある。そしてそれこそがあの人が叩かれまくる理由だと思う。
 ここまで評価しておいてなんだが、たとえば俺のようなクソみたいな家庭環境に生まれ、自分の学歴に対する顧慮などいっさいなく、それどころか親から一方的に切り捨てられたような、そんな環境においても同じことが言えるのだろうか、と。この問いはあの人にとってはおそらく意味がない。なぜならそれは確定した現在であり、いまさらどうしようもないからだ。人はそのときできることをするべきで、そして人の可能性は原理的には無限である。現実的には有限だ、というのと同じことではあるのだが、だからといって原理を捨てなければならない理由にはならない。
 これは、自分自身が、いわゆる高学歴のホワイトカラーの人たちと会ってみるたびに思うことなのだが、あのへんの人たちはそもそも低学歴の人たちの世界がまったく視野に入っていない。知識としては持っていても、それがどういうことなのか、個人の努力の及ぶ範囲はどこまでなのかということが理解できない。たとえば子供がかんじれんしゅうちょうで一生懸命字を書く練習をしようとしても「そんなことをしても無駄だ」といってノートを捨てるような親は一定数存在する。あの人にとってみればそれはどうしようもないことで、そういう人たちが大人になったときにも働く場所があるようにすればよい、ということなのだろうが、かといってそうした人々が自分の境遇についてなにも考えないというわけではない。それが恨みとして蓄積する。
 その恨みというのはまことに非生産的なものなのだが、かといってなくなるわけでもない。もちろん、一個人である以上、ちきりん氏がそれを考慮する必要性はどこにもないし、義務もない。ないのだが、そうした恨みが集積するのは、これはどうしようもない部分だと思う。
 そしてここまで理解し、評価する俺にしてからが、あの人の文章を見ているとどうしようもないいらだちを感じることがある。切り捨てられるべき弱者の現場に立って同じことが言えるのか、と。その恨みはまったく不当なのだが、しかしもし俺がこの人に直接会ったとして、そのご高説を目の前で縷々と述べられたとき、俺はかの人を殴らずにいられる自信がない。
 そして、こうした立場から意見を、ちきりん氏と同じ強度で述べられる人間というのは絶対に存在しているべきなのだが、その根底にあるのは、既存の思想に依存した硬直した思想などではなく、実感にもとづいた、それこそ「自分の体で感じた」この現実に対する広い意味での愛のようなものでなければならない。いま、自分の知っている限り、そうした人ははてな界隈には見当たらない。

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