お客さんが来ない感が圧巻です。でもまあ、数人でも見に来てくれるっていうのはほんとに励みになりますね。どうも俺のモチベーションってアクセス解析だったらしいです。1人でも読みに来てくれると嬉しいんですよね。なんていうのかな、数字の大きさじゃないんですよこういうのって。だれかは読んでくれてるっていう確信だけは欲しいんだと思います。そうでないとほんとに読ませるための文章って書かないから。
 それにしてもはてなって場所も変わったなあと思いますね。まあ語れるほど昔からいたわけじゃないし、村民ってわけでもないんですが、営利企業としてはほぼほぼ正しい方向に進んでんのかなあという感じがします。なにしろ増田がキラーコンテンツですよね。それであんなわかりづらい場所にあるのどうなのかな、と思いますけど。
 いわれてみりゃ、長文前提の匿名サービスってあんまりないですもんね。
 前に某精神科医の方のブログ経由で「いまはブログ界隈も変わったよねー」みたいな話題読んだんですけども、ま、ほんとにそうだと思います。俺自身は過去も現在も未来も、あらゆる時代において善悪は存在しない、自分が感じる郷愁みたいなのは完全にワキに置いといて、みたいな主義なんですけども、それでもやっぱり「あのころ」に対する郷愁はあるんですよね。あまりに衝撃的すぎたんですよ。
 自分の場合、オタ趣味に関して共有できる人がほとんどいなかったというのがあって、特にフィクションですよね、ああいうものに関してここまで真摯にのめりこんでる人間なんてこの世にほかに存在しないと思ってた。基本的には「作品と俺」ということで完結しちゃってるタイプの人間で、そのことについてだれかと共有する必要性ってあんまり感じないほうなんですが、でも「こんなこと考えてるのは世界中で俺だけだ」という状況はきついものです。共有、共感までは求めない、だれかこういうことを考えてる人間がこの世界のどこかにはいるって知ってくれ、俺の存在を認識してくれ、というのがいちばん強かったかな。
 そのツールがとつぜん与えられたんですよ。このへんの「とつぜん与えられた」という感覚がいまの若い世代には伝わらないんでしょうね。こういうあたりに世代間格差って生じるのかな、とも思うんですけども、本当にそれはすごいことだったんだ、とこっちがいくら力んだところで意味ないわけですよ。音楽におけるビートルズの衝撃と似たようなもんで。
 ああ、ビートルズの話でいうと、リアルタイムで聞いてた世代って、わりかし初期が好きな人が多いんですよ。がんばってもリボルバーまで。マジカル・ミステリー・ツアーからあとに関しては、好きだけどまあ、という人が多い。
 でもこっちはリアルタイムで聞いてたわけじゃないので、初期の「衝撃」っていうのがわからない。こちとらアニマルズでもセックス・ピストルズでもジミヘンでも、ツェッペリンでも、そのあとのさまざまなものを経過したうえで音楽を聞いてる。そのうえでなおサージェント・ペパーズは好きだったりするわけですけど、その同じ耳でマイブラとかも聞いてるわけじゃないですか。それと似た構図ですよね。どうあがいたって「いかにネットの出現が衝撃的だったか」「その空間がどれほどよいものだったか」なんて力説したところで、その後の世代にとってはまったく無意味に近い。
 もう、この点ではまったくもって歴史は繰り返すですよね。ボカロの出現なんかも俺にとっては衝撃的でしたけども、いまとなってはボカロがある風景があたりまえで「ボーカロイドだから」というところに意味は大してない。「メルト」の出現がそれ以前以後で分けられるくらいに衝撃的で、当時、俺たちがいかに「初音ミク」という存在に夢を持ったかとか、それはもういまは関係ないわけです。もっとも俺あたりは初音ミクの登場時にはいいかげんいい年だったので、その出現と衝撃について「語りたい」という強い衝動はない。
 そこ行くとネットの出現ってのは「俺は生きていてよかったんだ」というくらいのものでしたから。あのときの感動みたいなものは、繰り返し語りたくなるわけです。それが失われたいまとなってはなおのこと。
 老害なんて言葉がありますけど、いまのご時世、なにどうやったって昔のことに触れたら即老害なんですな。これは昔からそうですけども、いまは可視化されてるからなおのことです。「あのころはよかった」なんてのは俺の嫌う言葉の最たるもんですけど、あのときあったものがいまはない、となれば「あのころはよかった」に自動的になってしまうし、じゃああのころにあったものを懐かしまずにただ現在に密着していればいいのか、というと、それはそれで無理してるわけです。密着していることに無理があるのではなく、過去がない、という前提で書くことに無理があるわけです。そのときどきの若い世代はたいてい歴史というものを否定したがります。古いことに価値はないし、自分が生きてきた前の時代には興味の持ちようもないから。
 なまじ同世代がいるとね、「あったんだ」という事実を相互に確認できる状況だと、どうしても郷愁はなくならないわけですよ。別になくすべきものだとも思わないし。

 最近は小松左京の「日本アパッチ族」を読んでたわけなんですけど、あれを読んで強烈な違和感みたいなものを感じたんですね。あの小説が書かれたのって1965年とかそれくらいだと思うんですが、書いた人間がそれを書こうと思った時期って60年代初頭だったはずです。で、その15年前には東京でも大阪でも、一面の焼け野原で、バラックがまばらに建ってるような、そういう状況じゃないですか。15年で、その荒野から都市への変貌を見てた人たちは、日々の生活に追われながらも、ふとした瞬間に「いったいなにが起きてるんだろうな、これは」と呆然としたような気分になったと思うんです。15年前。そう、俺にとってはAIRを最初にやってから現在までの時間です。同じ15年で都市が一度は壊滅し、そこから復興した、という状況を見てる人とは、時間感覚が同じであるはずがない。
 でもね、そういう「同じであるはずがない」は現在も日々生産されてるはずなんで、現在の二十代、十代の風景を追体験できるはずもない。俺にできることといったら、可能な限り先入観を排除して、誠実に現在を観察することくらいですよね。いっさいの価値判断を含まず。
 なので俺は、ひとまずは目の前にあらわれたあらゆる事象について「よい」と仮定するんです。よいとするのなら、なぜそれはよいのか。それでだれが得をするのか。確かに俺にとってネットは窮屈なものになったんですが、それはよいことなんです。そう仮定する。そうすると見える風景って変わってくる。
 いちおう、この思考法に自分の内部のなにかが抵抗しない限りは、俺はさほど変わらずに生きていけるんじゃないかな、という気がしてます。抵抗したときは「下りる」ときでしょう。それに逆らうことはやっぱり無駄ですね。無理して逆らったところで、阿諛みたいなもんがにおってきますし、自分の倫理をねじまげると人間は嘘をつくことになる。嘘をついた人間には、なにものも正確な姿を見せてはくれないです。
 もともとねー、自分にとってこの世界が「よい」ものだったことなんてかつてあまりなかったんですよ。いつだって世界は自分を圧殺するものだったんで。それでも生きていくためには世界をよいものとし、そこに適応できない自分がまちがっていると仮定するしかなかった。そう仮定したところで変えられない部分に関しては、これをなだめて生きるしかない。ただそのことが罪ではないと思えるようになるにはずいぶんとかかりましたけど。
 なんだかんだ、いろいろあったなーと思うんですよ。たかが一人の人間の40年ちょいの時間ですけども、それは、これからもまだいろいろあるんでしょうけども、まあ、余事ですね。本質的に変わることはないだろうという時点で、俺はすでに「下りて」ます。もういいやってことですね。これをして守りに入ったというのなら、まあそうなんでしょう。
 ただこれからも俺は、新しいものがあったら飛びつくでしょうし、古いものよりも新しいもののほうがよいと信じつづけます。もともとこの世界、わからないもんだらけなんです。この年になったからといってなにがわかるわけでもない。日々に世界は新しい。その新しさは老若男女問わずあらゆる人間のうえに、平等に新しい。その事実を否定することだけは、自分にとっては絶対の敗北といえるんじゃないかと思います。

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