イスラムについての話が出てた。
 ブコメ見る限りいろんな意見があるようだ。
 こういうことに関して、俺の意見はわりとはっきりしている。「どうせ理解できん」というのがそれだ。だってそうじゃない。生まれたときからイスラムの環境にあって、みんなが日に何回かメッカのほう向いてお祈りするような状況で、物心ついたときにはよくも悪くもそれが基準になる。ま、世界基準でいえば日本のほうが特殊なんだろうが、その俺らだって物心ついたときには日本的基準のなかにいるわけだ。なので、まずは相互理解は不可能であると仮定する。
 不可能でありながらも共存しなきゃならん、というときになにより必要なものは思想ではなく行動で人の行動を制御することだろう。人殺しはよくないとか、盗みはだめだとか、その程度のことだ。イスラムは原理主義を生みやすい、という傾向はあるのかもしれないが、かといって億単位の人間が信仰している宗教にダメ出ししてもどうにもならない。非難されるべきはテロ行為そのものだけだろう。
 じゃあおまえ、実際に隣の家がテロ行為の標的になっても同じこと言えるのかよっていう話になるんだけど、これはなってみないとわからない。ただ、向かいの田中さんちがムスリムだったとして、その田中さんが「私もムスリムだけど、テロとかは怖いわねえ、いやだいやだ。子供の登下校には付き添わないと」とか言ってて、さらに田中さんが晩ごはんのおすそ分けとかくれてありがたいなあと思ってたら、田中さんまで含めてまるごと憎悪する、ということはかえって難しいと思うのだ。「田中さんちもムスリムなんだから、あのテロどうにかしてくださいよ」って言ったところで、その田中さんはただの主婦である。とばっちり以外のなにものでもない。
 もぢろん、その宗教の内部にテロを生み出しやすい構造があるというのであれば、問題は別かもしれないが、俺としては「それは俺の考えることではない」ということになる。ムスリムとしての田中さんよりも、ふだんの生活のなかであいさつをしたり、ゴミ捨て場の分別がちゃんとなされてないことに不愉快な顔をしている田中さんの顔のほうが俺にとっては印象が強い。そういう部分では人間というのは言語さえ通じればだいたいは相互理解可能なものなので、俺はそれ以上を考える必要がない。
 少なくともイスラムがテロ集団であるなら、ある程度の規模になった時点で自己崩壊するはずである。崩壊していないということは、その時点で共同体を護持するなんらかの機能があるということだ。歴史的にも、かつては外部に対して寛容な宗教だったはずで、それが変質したのはまた別の要素があるはずである。

 話は逸れるんだけど、ネットの大衆化というものが完成(してるよな、もう。ある程度は)したあとになって思うことは、わきまえみたいなのがなくなってきたよなーというようなことだ。論じるには前提となる知識がいる。だれでも発信できるとなったときに、とうぜんながら、そのだれもが堅牢な知識を持っているというわけではない。空白の状態からなにかを論じようと思ったときに、その人にはごく素朴な意味での正義感くらいしかないのかもしれない。それでも論じようと思うときには、お手軽なわかりやすい思想体系に乗っかる。なんらかの価値の体系がなければのものごとの是非はわからないからだ。完璧な思想体系は美しいだろうが、その内部に矛盾という名の緊張を孕んでいなければ、しょせんガラスの塔にすぎない。そんなものを扱うのは建築家だ。建築家になる意志のない人が思うのは「あれはどれくらいの値段なんだろう」「あそこは住み心地がいいんだろうか」というようなことで充分だと思うし、その生活にベタに密着した視点から、また新しい、今度はもう少し堅固な構造物ができあがるのではないだろうか。
 と、俺は思うんですけどねえ。ま、なかなかそう簡単には行かないのでしょうが。
 そいや最近は厚労省のマンガによる啓蒙なんちゃらがずいぶんと叩かれてましたが、あんなもん見させられたら、まあえらい人も信用できなくなるよねえ。あれなんであんなことやらかしちゃんたのかなあ……。