いちおう予定としては長くても50歳くらいで死ぬことになっている。別になんらかの地球滅亡説を信じているとかそういうことではない。親族を知っている限り遡ってみても、たいていの男は50歳になる前に死んでいるというだけだ。体質というのはある程度は遺伝的なものなのだろうから、だとすると俺もそれくらいで死ぬと考えておいたほうが妥当だ、という程度の話である。別に宿命というわけでもないので、それはそれで健康管理はする。寿命というものはどうなるかわかったもんじゃねえので、まあ確率とか、そんなようなもんで把握しておくほかない。
 ところで、あと5年で死ぬことになる。

 この手の人にありがちなことで、二十代の後半くらいまでは死ぬことばかり考えて生きてきた。50歳くらいで死ぬ、ということはずいぶんと若いころからそう思ってきて、ならばどうせ長くても50年なのだから、いまここで死んでも意味はないだろうと考えてもいいようなものなのだが、不思議とそうならない。
 まあ、考えてみりゃ不思議でもなんでもなく、いまそのときがつらいのならば、それ以上生きる意味は大してない。俺は常々思うのだが、生きるということは非常にめんどくさい。なぜならメシを食わなければならないからだ。主体的に「食う」という意志がなければ肉体は死ぬ。食わないでいることに苦痛がともなわないのならまだましなのだが、この肉体というやつはまことによくできており、人を食う方向に操縦すべく、あらゆるシステムが備わっている。
 何度か「こりゃもうだめかな」と思ったときがあった。しかしどんなにいやなこと、つらいことがあっても、24時間も経過すればコンビニで弁当買ってるんである。そのばからしさといったらない。生きるの死ぬのと、全身をあらゆる恐怖や絶望がちくちくと責め苛んでいるというのに、コンビニに行けば「お弁当あたためますか」「はい」ということになる。日常の力は偉大だ。クソぶっかけたいほどに強い。もはや日常とはなんなのかと問われればメシ食ってクソすること以外の答えを俺は持たない。メシ食ってクソすることに意義なんぞつけようもない。まず、そこが出発点だ。人間の土台はメシ食ってクソすることであり、ほかのすべてのことは、その土台の上にある遊びである。遊びならどうするのか、と考えたときに、ようやく意義だの思想だのそういうものの出番がある。しかしわきまえは忘れないことだ。それはすべて遊びである。遊びなのだから、余裕は必要である。勝っても負けても、楽しくても楽しくなくても、すべては遊びである。だからこそ、ルールや美学が必要になる。

 ところで、俺は20年以上働いてきた。まあ俺くらいの年齢の人ならたいていそれくらいは働いているであろう。しかしあと5年程度(俺の設定によればだが)しか働けない、という状況になってふと思うのだが、俺にとって仕事というのは「メシとクソを支える土台」でしかなかったらしい。
 これは子供時代から連綿とそうなのだが、俺はリアルと妄想の二本立てで生きてきた。現実というのはすべて「ただそのようなもの」であり、俺はそこに大した意義を認めない。俺が干渉したぶんはリアルは変化するだろうが、それはただそれだけのことである。そこで人は考えるだろう。干渉する力を大きくすれば、より大きく現実を変えることができるのではないか。
 現実とはなにか。それはその人の肉体が生存する環境のことだ。俺の人生のかなりの部分は情報化社会というやつらしいが、俺はそれを認めない。手が届き触れることができる範囲のもののみが現実である。手は、拡張しうる。そしてそれは力である。この力というものは、そのままで影響力と読みかえて差し支えない。その意味では確かに情報化社会なのだろうし、俺もまたその恩恵にあずかっている。
 環境にはたらきかけて最適化することは人間の本然に近い欲望だろう。しかし俺はどういうわけかそれをしてこなかった。理由は単純で、俺にとって必要な最適な環境とは、メシとクソだったからだ。そこに不自由がない限り、それ以上の努力は必要ない。力は往々にして厄介ごとを引き連れてくる。ならば人はメシとクソで充足すべきである。
 という考えかたが変化したのは、俺が仮に定めた死期が近いせいか。あるいは人を使う立場になったからかもしれない。

 人間は変化しなければならない。これはそれがいいことだとかそういうレベルの話ではない。そうしないと死ぬからだ。死ななければ人間は残念ながら生きる。しかしこの変化というやつがなかなか難しい。力学と同様に人間にも慣性ははたらく。方向を転換しようと思ったら、そのとき必要になるのは筋力である。そしていうまでもなく筋力は年齢とともに衰える。この精神における筋力を保証するものは、おそらく好奇心やわきまえ、そしてその最大のものは、知性なのだと思う。
 結論はない。これはただ「そう気づいた」というだけの文章である。仮に俺自身に意義が不要だったとしても、他人はそうではないということだ。たいていの人は現実から離れられない。離れるためには足場が必要で、その足場もやはり知性が作る。
 なお、知性の副作用は、人間を不幸にすることだ。ものごとはうまくできている。あるいは、まったくうまくできていないのかもしれない。
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