「大家さんは思春期」1巻から4巻まで読了。

 おねえちゃんがあまりにかわいかったため、なんでもいいからかわいいものが欲しかった。店で雑誌を並べてるときにこの大家さんが中学生なのかこれはすごいなかわいいなあと思ってたので、きっとかわいいんじゃないか、そういえばアニメ化とかなんとかいう話もなかったかと思って読んでみました。

 と思ったんですけど、個人的にはちょっと合わなかったようです。
 どこがっていうと……うーん……。おねえちゃんについての記事で「ヒロインのかわいさを際立てるのは周囲のヒロインに対する扱い」みたいなこと書いたと思うんですが、実際には関数みたいなもんだと思うんですよね。まずヒロインのキャラ設定があって、単体でどうかわいいかっていうことと、次にそれに対する周囲の扱い。マンガだと絵柄なんかも絡んできますけど、それはさておき。
 これはもう圧倒的に個人的な好みの問題だと思うんですけども、大家さんに対して欲情してる人間がだれもいないんですよね。おそらく作者含め。掲載誌の問題なども含めればそれで正しいんですけども、俺はどうもこのヒロインに対する欲望の構図みたいなのがないとあまり興奮しないらしいんです。欲望があればそれでいいのかっていうと、たとえばかなめもの酒飲み(名前忘れた)なんかがいますけど、あれはあれでちょっと違う。
 なにが違うのかなって考えると、俺にはどうももうひとつの要素として「ヒロイン側からの欲望」も必要であるみたいなんですよ。その欲望はなにも「すごいセックスしたい」というものである必要はない。潜在的なものでかまわないんです。「妹としてお兄ちゃんに甘えてみたい」「本当はお兄ちゃんが性的な意味で大好き」など。それが阻害されてる状況があれば文句ない。具体的な行動として表現するなら、つまりオナニーです。「オナニーすごそう」という印象は、この欲望の阻害と関連しているのだと思われます。人間が複数いれば、その人数だけのオナニー観がある。俺はそう思います。
 また、別の要素として「作者が明確にヒロインに欲情している場合」というのがあります。これはかなめもにおけるかなの描写がそうです。ひらがなばっかで読みづれえよ。あと俺ガイルにおけるガハマさんの描写は、絶対に作者ガハマさんでオナニーしてると疑いません。

 で、この作品に話は戻るわけなんですが、ヒロインである大家さんには欲望がないんですよね。作品内部で表現される欲望ってのは、ほかの登場人物に向かうベクトルのようなものとか、あとヒロイン本体の欠落のようなもので表現されるんですけども、自分にとってよい作品というのは、読み手である俺の欲望が、ヒロインの欲望を回路として通じ合うような状態です。アニメのヤマノススメであれば、あおいの「女の子として扱われたい」「そうであることが当然」みたいな性質に由来するめんどくささみたいなのが「ああ、めんどくさい女の子をちやほやしたいなあ」という俺の欲望と結託するわけです。あるいはそんなあおいを「しょうがないなー」と思いつつもなんとか楽しませようとしているひなたの欲望に仮託して「ああ、あおいとひなたはセックスしたほうがいいね……」というかたちで俺の欲望が実現される。
 この作品にはその俺の欲望が沈潜する余地がありません。そうであるように作られているからです。これは読み手である俺の歪みがむしろ問題となります。

 とまあ図式化して考えてみたんですけど、実際は「そういうふうにできていない」作品でも、いくらでも俺が性的に興奮する作品はあったりするんで、結局は相性とかいう曖昧な言葉に帰するしかないような話だとは思うんですけどね。それゆえにこの世にはこれほどさまざまな作品が存在しているわけで。

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